西行法師 元永元年(1118年)〜文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から 鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)で憲清、則清、 範清とも記されている。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称した。 出家は、友人の急死説が現在主流となっている。「西行物語絵巻」では、親しい友の死を理由に 北面を辞したと記されている。 失恋説は『源平盛衰記』には、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが 「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。近世初期成立の『西行の物かたり』には、御簾 の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ 逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば 白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。現在放映されている NHK大河ドラマ【平清盛】では、佐藤義清として今は北面の武士を務めている。 (別所温泉の湯川に架かる橋【西行法師の戻り橋】) 2012年3月11日 撮 影 : 東 川 >-No1.西行法師の戻り橋 今は鉄筋コンクリートの橋となっている。 あるとき西行法師は、山田村の山田池沿いの別所街道を歩いていた。堀抜きと言う峠道に差し掛かかると、 南斜面の野っぱらで数人の童が「わらび」を取っていた。しばらく立ち止まってその様子を見ていた西行 法師は「これ子等よ、わらび(藁火)を取って手を焼くな」と言ったそうな。すると一人の童が すかさず「これ坊主檜笠(火笠)を被って頭を焼くな」とやり返したそうな。西行法師は、一本 取られたと思いつつ掘抜き峠を越えて湯川に掛かる橋に差し掛かったが、どうもさっきの童たちが気になる もう一度会って禅問答などしてみようかと、橋を渡りかけたが渡らず戻ってみたが、そこには童の姿はなか った。この橋を「西行法師の戻り橋」と言う。昔は木造の細い橋だった。 正面の山は、男神岳。 -No2.堀抜き峠にある「そばや」。現在は自動車が通る幅広い舗装道路となっている 「み田村」看板の前を左に入る道路が旧別所街道でソバ屋はこの街道沿いにある。 子供のころ、この辺には「わらび」が沢山あって良く取りに来たものである。-
(別所温泉の湯川に架かる橋【西行法師の戻り橋】) 2012年3月11日 撮 影 : 東 川