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天 上 山
定例山行

神津島のHomePage

(撮影月日 16年11月19-21日)

-天上山南東斜面-(21日の帰りに多幸港出航の「かめりあ丸」から撮影)-
2000年7月1日の地震で南東斜面が崩壊しこのような絶景となった。


-19日竹芝桟橋から「かめりあ丸」に乗船後 焼酎パーテー
(この写真飲みすぎて黄疸か?)-

-20日の朝 船上からのご来光-

-夜が明けてくっきりと姿を現した「神津島」-

-神津島「天上山」-

島の伝説    水 配 神 話 (みずくばりしんわ)

 神代の昔、事代主命と神々によって伊豆七島
 が造られた後、その真中にある神津島で島々
 の神々が集まり会議が開かれた。
 場所は天上山山頂の火口跡の不入が沢。
 会議の一番大事な議題は、命の源である
 「水」をどのように配分するかであった。
 そして討議の結果、翌朝先着順に分ける
 事に決まった。翌朝一番早く来たのは、
 御蔵島の神様。そのため御蔵島は最も
 多くの水を手に入れる事出来た。

 次に現れたのが新島の神様
 3番目は八丈島、4番目は三
 宅島、5番目は大島だった。
 こうして次々に水が配られ
 水はどんどんなくなっていく

 そんなところに最後にやってきたのは利島の神
 様。既に水は殆ど残っていない状態であった。
 これを見た利島の神様は怒り、僅かに水が
 残っていた池に飛び込んで暴れ回った。
 水は四方に飛び散りお陰で神津島ではいたる
 ところで水が沸きでるようになったと言わ
 れる。
 不入が沢は今でも足を踏み入れてはいけない
 神聖な場所である。



-神津島港と「天上山」-

-「かめりあ丸」を下船した一行(1名カメラマン)-

-黒島登山口から尾根までは急登が続く-

-神津島港(海はエメラルド色)-

-[天上山の伝説]「鬼達の力比べ」-
この急斜面の一角には三段に重ねた大石が見える、
稲妻が走ると天から力自慢の鬼達が降りてきて力
比べして積み重ねて遊んだ跡だと言い伝えられている。
また何時の日か、鬼達が降りてきてあの石の上に更に
大きな石を積み上げるかもしれない。

-鬼達の力比ベの石のところから南方-

-イソギク-

-ウメバチソウ-

--

-文政の石積跡(オロシャの石塁)-
徳川末期になると、異国船が日本各地に出没するようになり
幕府は、伊豆の島々にも來寇に備えて島民を守るように命令
を下し、神津島には、鉄砲数丁ととやり一筋が備えられました
更に異国人が上陸した時、この山に引き寄せて戦えるよう文政
10年(1827年)頃、石積防塁を300mに渡り築き。その跡が
現在も山頂付近に残っている(写真上)

-千代池 ハート型(一寸下膨れ)-

-静かだなー−−(神の住む池か?)-

-裏砂漠に向う1-

-ちょっとこちらを向いて-

-裏 砂 漠-
荒涼とした花崗岩の砂礫と、空と海のコントラストが原始の島を彷彿させます。
ここに降った雨は逃げ場を失い、全て大地に飲み込まれ、やがて伏流水として
島人に数百年の飲み水を保障してきました。

-不動池(池の中の小島に龍神様が祭られている)-
-不動様は池之端に祭られていた。-

-池の中の水草の緑が目に沁みる。-
-神が宿っているのかな?-

-山頂手前の見晴台には「天上山」標識あり-

-天上山山頂から切り立った断崖が-

-天上山山頂で-

-下山後「神津島温泉保養センター」に向う海岸の夕日-

-「神津島温泉保養センター」で入浴後
午後6時半民宿で夕食 刺身がとてつもなく美味しかった。-

-21日早朝「物忌奈命神社」参道は椿並木-
2000年の地震で本殿崩壊・現在岩手県の宮大工により再建中

-11月21日西風強く「かめりあ丸」の出航は多幸港から-
多幸港のモニュメントと砂糠岬(黒耀石層)
神津島--面積約19Ku--周囲約22Km--人口約2,200人

-船内食堂でMさんが持参した「ボジョレーヌーボ」で-
ワインパーテー ・2004Nouveau-フランスの空気までも一緒に
瓶詰めされて--大変な盛り上リ--気分はParisienne!!!!

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